ヤンキーと引きこもりとキラキラ女子、ときどきおじいちゃんと子ども
みんな心に何人飼っているんだろう。私はタイトル通りの感じ。
とは言え人格が分裂しているとか別人格の時の記憶がないとかそれぞれ名前が付いていて…とかいうわけじゃないので、ふんわりしたものだと思う。
ヤンキーくんは多分言いたいこと言えない私を守ってくれるキャラかな。喜怒哀楽でいうところの怒。
すごく口が悪いし、声も大きい。目つきも悪い。私が傷付いて、ムカついて、でも何も言えないときに影でこっそりキレてくれたりする。基本姿を人にはあまり見せないけど、お母さんの前とか。
もちろん私がしゃべってるんだけど、普段あまり頭も回転しないし噛みまくるのにヤンキーくん状態の時は次から次へ言葉が出てくる。言っていてすごく快感。でも途中でそこまで怒ることじゃないけどな、ともどこかで思う。
引きこもりくんは精神的に大変な時。どこへも行きたくない若しくは小さな予定にも敏感で、(耳鼻科に行くとか)TVで健康特集を見たらそれをやらなきゃ、とか、何か重大な病気があるんじゃないか、とか、楽しい予定にすら怯えていたりする。起きれるかな、とか寝れるかなとか。この時は頭がぼーっとしてて、言葉が出てこないし、出ても大いに噛む。
喜怒哀楽でいうなら哀かな。少しの心配を気にしすぎてかき集めて巨大な心配にしがちだけど、この子のおかげでいい病院が見つかったりいい出会いがあったりすることもあるし、健康診断が出来ているという節もある。あと、いい歌が沁みる。健康のありがたさとか些細な幸せによく気付けている気がする。
キラキラ女子は喜怒哀楽の喜でしょうね。心身共に調子のいい時や、女子会の時はずーっとこれ。キラキラキャッキャしている。バブルランというただのパリピしか居ないブチアゲイベントに参加した時は最高にこれ。私の素ってこれなんじゃない?とキラキラ女子している時は本気で思う。あと、地元の友達が何人かこんな感じで、一緒に居ると移る。体力的には疲れる筈だけど何故か平気なのもキラキラならでは。
高橋一生とか東方神起とかバナナマンとかラーメンズを観ていてもちょっとこんな感じ。
おじいちゃんは喜怒哀楽の楽。語尾が「~じゃ」、になる。多少千鳥のノブが入っている気もしないでもない。癖がすごい。女子じゃないので気楽。若者じゃないのでもう頑張らなくていいし、あとはテレビでも見て死んでいくだけといった感じ。芸能人の可愛くて若い女の子が好き。もちろん女子じゃないので嫉妬もしないし、若者じゃないので手が届かないから諦めてただただ応援することが出来ている感じ。楽なのかそれ。ちょっと泣けてくる。
喜怒哀楽でもなくて厄介なのが子ども。これが一番凶悪かもしれない。でもここと仲良くできたらラクに生きていけるかもしれないし、楽しくて自由な大人になれるかもしれない。
子どもって無邪気でお母さんに甘えられる子どもじゃない。本来それが子ども時代なんだろうけど。恨みとか寂しさとかがギュッと詰まってねじれてる感じ。
子どもの時こういう事がいやだった、と母や父に伝えて、そうだったのか、と分かってもらって、謝ってもらって、もういいと思っていたけどまだ良くないみたい。
子どもを終えて大人になることが恐ろしいのかな。年齢でいうと大人になってから何年か経っているけど、アルコールやたばこはもちろん、正社員での就職、恋愛、結婚、出産といういわゆる『大人の醍醐味』からは逃げて逃げて今日に至っているし(これが大人だという発想も、ちょっと子どもなのかもしれないけど)
このいつまでも子どもで居たい、ということを考えるといつも頭によぎるのが、中学生の時。自分のことも他人のことも嫌いで、クラスメイトが怖くて気持ち悪くて学校へ行けなくて、欠席や早退を繰り返してた時、家族でトランプしたことがあって。
まだ2人の弟が小学生で、父も母もみんなでやったそのトランプが楽しくて幸せで、ああこんなに家って幸せなのかと思ったことがある。特に弟2人が本気で楽しく遊ぶのが可愛かったし、学校にろくに行けない私のことも弟2人は責めて来たりしなかったから。
そういえば私は極度のブラコンで、『弟達が可愛い』というのをエンジンにかなりオトナをやってきたような気もする。弟が喜ぶのを見たくてゲームでわざと負けたり、おかずの多い方を譲ったり、弟の観たいテレビにしたり、からかってくるのを嫌がらなかったり、ほとんど怒らなかったり。進路決定の時には大学の指定校推薦を拒否して、成績が優秀だった弟達に学費が行くようにしたり。(後々あまり興味のない大学だと知ったけど、当時は健康状態の不安なども重なって未来が真っ暗になった)
私の言う『こども』って『お姉ちゃん』とイコールなのかもしれない。
すぐ下の弟は2歳差で産まれているからほぼひとりの記憶はない。でもアルバムをめくるとそれはそれは弟を溺愛していて、前述のお姉ちゃんとしてのオトナな行動もやりたくてやった、とも取れる。
『私が我慢したら弟達がしあわせになれるはず』
『私が我慢したら両親も喜ぶはず』
そういう全くゆがんだオトナ思考で私はお姉ちゃんという名の『子ども』時代を過ごした。
リターンはあった、長男は超名門大学で院まで行き、大好きなスポーツのサークル内で彼女を見つけ、結婚し、子どもを儲けて一流企業に勤めるイクメンだ。お嫁さんの実家近くに住み、尻に敷かれつつも幸せそうに笑う弟を見ると、よかったな、と感じる。
次男も第一志望の名門大学へ進んだ。忙しそうだったけどちょくちょく様子を見に行っては癒された。幸せな時を過ごすことができた。
もう家には子どもは私しか居ないので、私はお姉ちゃんをすることが出来ないでいる。
我慢するオトナをするメリットがなくなり、モチベーションが下がったのかもしれない。
弟のお姉ちゃんをする=子ども
では、
次世代へオトナの役割をする=大人?
そう考えたときに、またあの歪んだ我慢をしたくない。
というか多分、あのへんな我慢は大人じゃない。
私が陰で泣くことを、死にたくなる選択肢を選ぶことを、家族の誰が喜ぶだろうか。
楽しそうな大人いっぱい居るじゃん。私だってなんかこう、高橋一生みたいな、星野源みたいな、設楽統みたいな!そういう人と恋愛とかしてみたい!そういう人じゃなければしない!
楽しい仕事や楽しい子育てだってこの世の中にはあるはずだ、多分。楽しくなければしない!
これからはそういう、色々やらかして失敗して恥かいて笑われながら、子どもみたいに大人の甘い汁を啜って生きていきたい。
ところで、お姉ちゃんじゃないただの私は何がしたいのか。分かっている気もするけど今はこの辺でやめとく。